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IMG_0483.jpg今日、Nadiffで開催された「写真分離派宣言」なる木村伊兵衛賞受賞3写真家(鷹野隆大、鈴木理策、松江泰治)と写真評論家2人(清水穣、倉石信乃、いずれも敬称略)の立ち上げイベントに参加してきた。5人を結びつけるのは、実のところ1963年生まれということ以外には、まあ現代の写真の構造に(あるいは構造のなさに)いらだっているということのようだ。

話の要点はこうだ。

写真の、特に賞やコンテスト界隈に集まる写真の質の平坦さ、そして権威なりパワーが規定していく構造や言いっぱなしの評論などに彼らはこころをいためているという意思表明な訳だ。自己決定型のアートの文脈と構造決定型のアートの文脈で言うなら、自己決定型のアートは習作段階の羅列のようなものでもはや不毛というしかなく、写真の例えばスナップショットを巡る個人情報や肖像権問題などの新しい状況から写真の環境も変化しており、日本の写真を巡る環境はますます厳しくなっている、なんらかの構造に立ち返った方がいい、と言っているような気がした。もしそうなら、その通りだと思う。日本の自己決定は欧米の自己決定とは明らかに異質なものだ。自己責任を伴わない決定は、自己決定とは言わない。

写真が発展か消退のどちらかの方向に向いている、ということを前提にするなら、今回の話はとても説得力のある魅力的な話だった。しかし、ある意味でインフラ不在の構造である写真にとって、発展しているか消退しているかを規定することもまたできない。そんな流れの中でのこの宣言は有効なのか無効なのか、いったいこのメッセージは誰に届くことを期待しているのか、具体的な方法論で語られていた訳ではないので僕はどちらかというとまだ少し懐疑的に見ざるをえない気分でいる。写真分離派宣言の文脈を読み取ることを、写真の構造なき構造はするのか。してほしいとは思うが、今の写真の構造は多分行わないだろう。なぜなら、写真はここ日本ではそもそも構造をなしていないし、突き詰めれば写真に関わる本当に多くの人が、たとえばアーティストは自己の表現を小さなたこつぼ構造の中でぐるぐると自転車操業をしているにすぎないし、担い手もちょっと先の小さな利益だけをもくろんで構造の中に介在しているにすぎないからだ。アートの写真の小さな「面白さ(異質さ)」の発見にいつも莫大な注意が払われる一方で、写真の「面白くなさ(普通さ)」ばかりが無尽蔵に拡大している現状はどうにかならないか。写真がマーケットを含めた外部を循環することなく、閉鎖腔たるたこつぼにとどまったまま無意味な写真を生産し続け、朽ちても成り立っていくエコシステムを構築して安住している写真家や集団をたこつぼもろとも抹消できないか。写真アートとして語られる写真という構造の不毛をこれまでいくらでもmassとして話し合うことができたのに、話し合ってこなかったということではないか。写真というメディアアートを鏡に日本の美的空間の解釈と保全、海外への転写をこそしておけばよかったのに。しかもその構造的瑕疵を、基盤の崩落、教育インフラの不在として見つめていくべきだったのではないか。

写真が現代アートの一分野に自ら名乗り出て下野してしまった構造の中で、今いくら声高に叫んだところで写真は失なった陣地を挽回することはない。アルルでも見聞きしたが、従来の写真はその歴史的な流れの弱さや構造の弱さによって、あらかじめ敷かれたレールを進むがごとくその構造を現代アートのより強い構造に譲り渡してきたあるいはかすめ取られてしまったのだ。それは欧州であれアメリカであれ日本であれ、現代アートとのパワー闘争の前に「写真」というアートともメディアともつかない構造をあてたところで、すでに勝負は決まっていたという文脈なのかと思う。そもそも写真というのは、道具を経由する表現なのだから、その道具の他にない利便性故にアートの構造からみれば表現手段の一つとして落ち着かざるを得なかったのだ。スナップショットの瞬間の美学のみが写真のアートに対する優越性を保持はするものの、写真の真実性はもはやだれもそれを信じるものはなく、写真はふくれあがってはじけたポップコーンみたいにおおざっぱなバレルの底にバターにまみれて沈んでいるだけだ。そこにデジタルだのアナログだのの2次的構造を持ち込んで争ったり、画素数競争をあおるカメラ資本の幼稚なオタクゲームにのせられ、新写真文化がものすごい数の超然的にフラットな、カメラの高度に自動化された装置がなければ何も生み出せない連中を祭り上げたものだから、ある種構造の不在にいらだつ写真関係者の一部が立ち上がらざるを得なかった、というのが真だと思う。スーパーフラットが日本特有の地平だとしても、日本の写真は(欧米と比べて)取り返しのつかない陣地の喪失を経験してしまったし、その陣地は広大なものだ。その中心にぽつんと彼らがいるのであれば、いくら木村伊兵衛賞受賞作家たちであってもうまく行かないだろう。辺縁で中心のなさを心配顔でみている者たちを中心に集め、新しい構造をつくるか、新しい文化を構造する強さを呼び込むことが必要だと思う。その意味で今日「負け戦」(清水穣氏)を挑んだ人たちは果敢で貴重な存在だと確信している。

僕は分離派という人たちが新しい意味のある構造を生み出すことを願っている。フォトセセッションがアート写真の構造を作ったように、日本の今の社会構造をがらりと変えてしまう風を吹かせてほしい。写真のインフラを作る機運を完全に失う前に。もう目前だけど。国立写真大学とか、国立写真美術館とか、そもそも美術の基本教育に写真を組み込む努力とか。僕としても遠く神戸の地でささやかなエールを送りたい。

僕も実をいうと1963年生まれなのです。いらだっていますよ。そりゃもう。

kiriko_9.jpgのサムネール画像
人生劇場というべきなのか、はたまたセルフドキュメンタリーという写真アートのカテゴリーなのか。

本年度のキャノン写真新世紀に佳作で入選したキリコさんの写真の話題のシリーズを、実は僕は昨年11月末東京写真美術館で観ていた。キリコさんご本人とはその少し前の10月に関西御苗場の会場でお目にかかっている。何かと話題の写真作品なのでいろいろな人との会話の中に登場するし、若い世代の多くが「いいですよ」と好意的な印象を語っているのに、僕は基本的に批判的な視線で眺めていた。その理由はあとで述べるが、少なくとも東京で見たポートフォリオは、予想通り元旦那という男性を粗く削りとったプライベートスナップにしか見えず、ストーリーも表題である「旦那isニート」との言葉のイメージが強いだけに構成としても想像の範囲を超えるものではなかったのだ。キャノン写真新世紀自体も全体として魅力に欠け、同時に開催されていたサルガド展、木村伊兵衛・アンリカルティエブレッソン展の高揚とはかけ離れた世界だったためか、正直全体を少し引いて観てしまったところもある。

写真を作品として制作するという作業を若い世代がどのようにとらえているのか、僕はいつも興味をもってみている。自分の魂の叫びの表出、という人もいれば、社会の構造と自身の間に作品を置く人もいる。単に美しい風景を追い求めてフットワークも軽く挑戦している人もいる。写真がアートの一形態であり表現である以上、それがどのようなものであってもいいのだが、作品として世に出すということになると責任がついて回るし、作品が社会と関わる糸口を見せないとそれはアートとは言えない。表現は、いつもたった一人のこころの中から立ち上がるのだが、他者のこころの中に伝搬するか投影される仕組みをもたなくてはならないのだ。

そういう意味で眺めると、確かにキリコさんの作品「旦那isニート」は個人的な体験が元ではあるけれど、夫婦という最も小さな社会単位について記述しているし、元旦那と関わることで経験した離婚という出来事を良くも悪くも表現していることには違いない。本質的な部分は別にしても、個人的な体験をドキュメンタリーのタッチで冷静に振り返っている作品としてとらえると、確かにセルフドキュメンタリーのという写真のカテゴリーに当てはまる。問題は、アートの域に届いているのかという点だ。撮影方法が普段通りのスナップでしかなく、意図はどうであれ写真そのものがクオリティーを表出するものではないことは東京でポートフォリオを観てすぐに解釈できた。そう、むしろファイルに綴じられたいくつもの生活の切れ端のようなものの寄せ集めが大事なのだ。

kiriko_33.jpgのサムネール画像
さて、大阪のPort Gallery Tで開催されていたキリコ展である。オープニングの当日、おそがけに会場に着くと既に多くの若い人々が集まってキリコさんを取り囲んで大変盛り上がっていた。写真は、一部作品が壁面に展示されるにとどまっており、展示の本体は映像作品として壁面に投影されるというものだった。このアイデアはまず良かった。先に述べた寄せ集めの断片、ちぎれちぎれに分断され提示されていく彼女の元旦那を巡る「写真」たちが、その個々の断片においてはおそろしく抑揚がないのに、映像とテロップと二人の歴史を追った構成が加わることで機能し始める。断片のそれぞれが弱々しい男性の生き方を綴りながら、構成上は出会いから破局までの撮影者の心理描写を含んでいく。そして、この撮影者の心理描写の中に垣間見える元旦那像を徹底してスナップしていく表現者としての冷静さが、この映像の全編にわたる不幸の中からにわかに立ち上がってくるところがこの作品のすごさなのだと気づくのにそう時間はかからなかった。「勘弁してくれ、もう嫌なんだよ」と書かれた元旦那の携帯メールの一文を撮影する心理は、困惑する妻の感情を超えて、ひょっとして最初から離婚劇を作品化する気じゃなかったんだろうかと疑わせるのに十分だ。

人生劇場は普通にその辺に転がっている。離婚や恋愛の終焉は、経験すると重いが社会の「ネタ」としては軽くなりすぎた感がある。人々がこの作品に共感する理由はどうしてなのか。僕なりに考え、こういうことなのだろうと思うに至ったので書いてみる。

人はレトロスペクティブに生きることはない。人は一度生きた人生を振り返りはするが、後で美しく読み返すために構成しながら生きることはできない。でも、冷静な私、冷静な彼、冷静なあなたはいつでも、どこにでもいて、常に人生を客観視しながら生きているのだ。離婚という激しい駆け引きと冷静たり得ない構造の中に滑稽なほどちっぽけな元旦那と自分を置いたとき、感情的なものとは異なった客体としての構造と「冷静」さという新たな感情が生まれてくる。キリコさんはその感情を最後には「愛」とつづり、物語に終止符を打つのだ。とすると、この映像作品はやはり愛の物語なのだ。

自分の人生を他人に見せることはひどく難しい。人から聞かされる他人の人生はいつ聞いても退屈だ。だから僕は写真における人生劇場はアートの視点で見られたとしても好きになれないし、批判的になる。若い世代のドロドロした精神世界など、後で観て恥ずかしくなるようなものはギャラリーのレビューでもいつも切って捨てている。アラーキーはすごいが、彼が何枚もの壁を突き抜けて先をいったのはもう昔のことだ。まねをされ、あこがれをもって賞賛された古いスタイルのドキュメンタリーが今も通用しているのかというと、もはやそんなことはないだろう。もしそうだとすれば、それは日本の写真表現やそれを感じ取る目が全く進化していないということになる。また表現者の多くは、人生を見せるために出来事をディフォルメし、隠喩、暗喩などあらゆる手法を用い美しくあるいは曖昧に飾り立てたりする。それがなおのこと嫌いなのだ。しかし、写真というある種直接的なメディアを使って、最も激しい感情的な闘争を繰り広げた元旦那を確信犯的に登場させ、しかもそれで表現の中心に問いかけるセルフドキュメンタリーの手法となると、その態度は凛々しくもある。青い時代の表現が後で苦々しく思い出される局面もあるのかもしれないが、正確に断片を綴っている限り感情と冷静と青さの中に真実が見えるし、そして何より愛の物語はいつの時代も絶大だ。そんな意味でも、キリコさんの作品は社会とつながっているしその製作態度はとても評価できると思う。

今、写真表現は混沌としている。写真表現は、さほど意味のない無数のイメージの海に溺れてさえいて、何がすばらしいのか読み解くことすら困難だ。人々はもはや写真など信じてはいない。人々はニュース番組にさえ真実味がないことをよく知っている。劇場化した不実な写真世界が無数に垂れ流される中、セルフドキュメンタリーだけはまだ真実なのだ、そう叫んでいるようにも思える。自ら身を切ることで得られる真実。突き進んでは欲しくはないが、そうでもしないとアートの岸辺にはたどり着けないのが現代の写真なのかもしれない。

おそらくいつも痛みを伴うだろうが、痛いからこそ決して消えてはいかない真実の写真世界、キリコさんが今後どのようなテーマに挑むにせよ、今後のご活躍を期待したい。

興味を持たれた方はぜひPort Gallery Tでキリコ展をご覧ください。
3月6日まで。

4月13日から18日まで、東京の企画ギャラリー、明るい部屋にて同じ内容の展示があります。
大阪展を見逃された方、東京方面の方、ぜひご覧ください。



写真イメージはともにキリコさん提供
©Kiriko

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