文・馬場伸彦(メデイア文化論)
寺山修司/森山大道『あゝ、荒野』2005年12月 パルコ出版
『あゝ、荒野』(1966)は、寺山修司の書いた唯一の長編小説である。「あとがき」によれば、この小説は「モダン・ジャズの手法」によって即興描写で書き綴られたという。「書きながら登場人物がどう動いていくかを(登場人物と一緒に)アドリブで決めてゆくという操作は私にとって新鮮な体験であった」。寺山の言葉に従えば、登場人物の話も気分任せ、物語の結末も気分任せであって、あらかじめ想定されたプロットや構成はないことになる。したがって、結末は即興で書いた結果でしかない。
即興演奏のプレイヤー(まさしく役者)は、物語の冒頭に「あゝ、荒野のための広告」と題してあらかじめ紹介されている。まず、二木健二(愛称バリカンと呼ばれる床屋の無宿ちんぴら、二木建夫(バリカンの父親)、新宿新次(ユリシーズの肉体をもった二十歳のボクサー)、曽根芳子(性にしか関心をもたない女店員)、といった具合だ。
さながら劇画のキャラクターのようだが、寺山の特異な文章によって、彼らはあたかも実在の人物のように生き生きと動き出す。『あしたのジョー』のキャラクター、力石徹の葬儀を行ったのは寺山であった。虚構と現実の境界をいとも簡単に溶解させてしまうのは、寺山の得意技であろう。
すべてがアドリブだという主張をそのまま鵜呑みにするわけにはいかないが、実際、この小説には、物語の枠組みを越境し、さまざまなコンテクストが介在しやすい仕組みが随所に散見できる。たとえば、ブルースや歌謡曲の歌詞の引用、CMのコピー、売れている商品やベストセラーの本などなど。それらはすべて実在するものであり、60年代後半の新宿を表徴し、共鳴する記号であった。しかも、寺山は章のはじめに短歌を添えている。物語とは直接関係のない短歌であるが、この短歌の余韻が通底音となり、独特な雰囲気を醸し出していく。また、小説の本文にも特徴がある。明朝体を基本としながら、時折ゴシック体に変わり、変化させ、視覚的に差異化を図る。こうすることで、ゴシック体の部分は強調されるのであるが、それは、即興演奏におけるアクセントであったり、ドラムの印象的なフィルインであったり、情感を盛り上げるサキスフォンのソロパートのような役割を果たしている。「すべてのインテリは、東芝扇風機のプロペラのようだ。まわっているけど前進しない」、「老人に必要なのは、諦めではなくて、もっとひどい絶望か、あるいは偽りの希望かの、どっちかなのだ」といった、ゴシック体によるアイロニカルな表現に出会うとき読者は、不意にカンターパンチをくらったような気分にさせられることだろう。
本書は、1993年河出書房新社から文庫本として刊行された原本(66年に現代評論社より刊行)に森山大道の200枚を超える写真を加えて再編集したものだ。その意味で、これは森山大道の風変わりな写真集ということもできる。野良犬のような鋭い眼差しで彷徨い、60年代の新宿の表層を切り取っていく森山の写真。都市から剥がされ、印画紙に定着したその映像は、深層への道標となり、読者の目を直接、失われた過去へと結びつける。
無論、森山の写真はこの小説のために用意されたものではない。たまたま同じ時代、同じ場所が題材となった「偶然」の結果に過ぎない。しかし書物という場に交錯した「偶然」と「偶然」は、もはや単なる挿絵やイメージ写真といったレベルを超え、強い共犯関係を生み出している。短歌、物語、写真といった異なる表現形式が赤コーナーと青コーナーに分かれて戦うボクサーのように火花を散らし、不安を煽り立てる森山の写真が、劇場都市の欲望をありありと浮かび上がらせる。
森山が大阪から上京したのは1961年であった。最初に出会った街こそが「新宿」であった。「この街は、ぼくのあらゆる生における現場であり交叉点だ」と森山はいう。混沌としたカオスのごとき60年代の新宿。モノクロームの写真に象徴される光と闇。そして、隣り合わせの生と死。物語と交互にインサートされた森山の写真が、「憎まれることで愛される」と信じるバリカンと肉体を燃焼する行為にしか生きる意味を見出すことの出来ない新宿新次とのボクシング試合の隠喩となる。
「ふいに、〈バリカン〉は子供の頃のお祭りを思い出した。おみこしがだんだん遠ざかってゆく。おみこしと一緒に群衆も遠ざかってゆく。俺だけは取り残されているのに、誰もそのことに気がつかない......みんな後ろ向きだ......みんな去ってゆく。親父さん、俺はここにいますよ。親父さん、俺はいま、ここにちゃんといる......だから誰もどこへも行かないでくれ。誰もどこへも行かないで下さい。俺はとうとう「憎む」ということが出来なかった一人のボクサーです。俺は、まだ醒めている。俺はちゃんと数をかぞえることもできる。俺はみんなが好きだ。俺は「愛するために愛されたい」五十四発......五十五発......五十六発......五十七発......見ていてくれ......俺はまだ、ちゃんと立っている......五十八発......五十九発......六十発...六十一発...(中略)...七十五発......七十六発......七十七発......七十八発......遠い......目の前が一望の......荒野だ......七十九発......八十発......」。バリカンの死亡証明書で物語は閉じられる。
「もしかしたら見えるかもしれない、たった一枚の、来るべきイメージのために、ひたすら自身にのみ向けて、日頃、撮りつないでいるような気がします」という森山の写真に対する姿勢は、二人のボクサーの死闘と重なり合う。
