2011年1月アーカイブ

昨年末の写真分離派宣言の立ち上げトークショーに続いて、先日も鷹野隆大さんと松江泰治さんのトークショーがあったので、日帰りで東京に行ってきた。

結論から言えば、鷹野さんと松江さんは同床異夢、「写真」というものに関わるスタイルがそもそも異なり、ともに従来の「古い」写真がたどるであろう道程に危機感はあるものの、鷹野さんはそれを感傷的に、松江さんは実際的にとらえている印象があり、何とも噛み合ないトークになってしまったのが残念だった。

1月29日の日経新聞文化欄に「写真とは何か、問う」という記事が掲載され、ホンマタカシさんの写真の考え方と写真分離派宣言の鷹野隆大さん、鈴木理策さんの意見が紹介されており、それぞれが異なった写真論を展開しているところが興味深く、トークショーに期待をもって臨んだのだが、少し論点の見えないトークになってしまったのではないだろうか。

そもそも、この宣言の生みの親である鷹野さんの考えとは何なのか。トークショーは鷹野さんが松江さんに「古い」写真の背景にあるいくつかのキーワードについて尋ねることから始まった。

まず、松江さんが先頃TaroNasuギャラリーの展覧会で銀塩写真に並列して展示していたビデオ作品について鷹野さんが質問するところから始まった。そもそもどうして写真家が写真作品の展示だけではなくビデオも展示するのか。デジタルカメラに付属するようになった動画撮影機能を使っての動画撮影について、松江さんはビデオカメラなど振り回さなくても写真と同じカメラで撮れるんだ、だから面白いんだ、ビデオ映像の可能性についてなんらためらうことなく追求している、その追求は楽しくて仕方がない、と話し、写真の、特にストレートフォトや印画紙プリントの優位性を提示したい鷹野さんとしては最初から肩すかしを喰らったような感のつよい出だしであった。動画へのシフトが起こり写真がいずれなくなってしまうのではないか、との鷹野さんの危機感については、松江さんは「そんなことはないだろう、写真というものは決してなくならない。存在の位置づけはかわるかもしれないが写真は存続する」と考えを述べていた。

次に鷹野さんが提示したのは写真を追求するとプリントを制作するという職人技にたどり着く、「古い」写真というメディアとは1963年生まれの彼らが写真と関わるようになった1980年代からずっとカメラを通して撮影したフィルムを暗室においてプリントすることであり、作品についていえばプリント作業がその価値形成の大きな部分を占めていたのであり、カメラで撮影したものがプリントとして出力される全過程にこそ、写真家としての技と責任があるのだ、との持論を展開された。さらに、写真というメディアや技術が工業製品に依存して発展しており、たとえば印画紙やフィルムの相次ぐ消退に危機感がある、従来の写真がそのような形で消えていくことについてどう考えているのかを松江さんに問いかけていた。

これに対して、松江さんは実際的な対応をされていた。フィルムや印画紙がなくなるのは時代の趨勢、じたばたしても始まらない、自分が好んで使っていた印画紙はもはや販売すらされておらず、買いためた1,000枚の印画紙も使い切っていると述べ、それらがいずれ消えてしまえばそれに代わる写真、つまりデジタル写真の可能性について前向きに考えていくしかない、と応じていた。ただ、写真がモニター画面ではなくプリントや印刷物として出力され、それらが価値のあるものとして存在していくためには、やはり写真家が撮影も含め自ら作品制作の全プロセスに責任を負っている必要がある、それが写真の本来の姿である、と鷹野さんの持論に同調する場面もあった。

鷹野さんはデジタルで画像の加工編集処理を施しモニターなどで眺める写真と、ストレートフォトとして印画紙にプリントされる写真とが同列に並べられて評価されている、この状況はやはり考えものだ、分けて考える方がいいのではないか、と強調する一幕もあった。一方の松江さんは、その意味するところは認めつつも、カメラという機械を通して獲得するイメージは、そもそもひとの目を通して獲得するものとは違うのだから、いわゆる真実性を問うかどうかや、写真作品のストレート性やデジタル加工を施した施さないということを問題にできるのか、ストレートである写真、プリント作品のみが価値があるという意見には疑問を投げかける論調の意見を述べていた。

鷹野さんのいうところのいら立ちや危機感は、おそらく言葉に出して話されない別のところにも向いているような気がしてならない。フィルム写真の危機、というのであれば何も今に始まった訳ではなく、20年前にデジタルカメラが産声を上げたときには誰もが想像もしなかった今日の技術革新が根底にあり、広川さんなどの写真家がすでにゼラチンシルバーセッションなどの銀塩保護活動として描いているものと重なる部分も大きいはずだ。鷹野さんが慎重に言葉をつなぎながら説明をしているのをみると、もう少し根深いところで困惑があるのではないかとも思える。

写真というメディアは、その弱さや歴史の浅さゆえに、常に言語や映画、他のアートとの対比にさらされ、哲学、思想の論争の種になってきた。写真にはいろいろな立場や世界観が寄り添ってきたし、政治などにも利用され、作為的に改変されるなどゆがめられたりもしてきた。また道具を介する表現ゆえにその技術的な進歩の影響も大きい。カメラメーカーの資本やそれに影響を受けた権威などが付随する構造は写真社会ならでは、他にはない構造を作り上げて発展してきたともいえる。日本の写真を取り巻く構造の問題点を指摘することを論点にしないのであれば、複製画像技術としてのプリントの従来の質と今後訪れるであろう未来のプリントの質、映像ですら3Dや画像処理の技術革新が波動砲のごとく浴びせられていることを考えると、少し時代の動きを読み違えた感の強い論点であるような気がしてならなかった。つまり、あっさりと時代の流れに乗る器用な写真界隈、そもそも写真のプリントで苦労をしたことのないような若い世代の人たち、カメラを通じたツールとして写真をうまく使って作品を作る現代アーティストなどの活動やその作品の価値なども写真の拡張として受け入れるかどうかという問いかけにすらなっていない問題提起であった可能性もあり、全体として感傷的な印象のみが目立ってしまったトークショーだった。

加えて、これは僕も質問しようかどうか迷ったのだが、写真分離派宣言の活動での実践とは何なのか。まさか宣言をだし、写真展を行い、トークショーを開催することで終わる訳ではあるまい。ストレートのフィルム写真を保護的に囲い守っていくのであればそれも僕自身はありだと思っている。でもそれは誰かが勝手に分離を宣言してかなうことではない。若い世代の写真家が「古い」写真に参加することを難しくする可能性があり問題も多いだろう。一方で、テーマやコンセプト、モチーフといった写真の構成要素や、写真思想や技術論、新しいメディアやアートとしてのデジタル写真の技術や可能性の学術的担保、写真の社会性や制作上のモラル、写真資本との関わり、フィルムや印画紙メーカーの買収、いつでも写真の原点に回帰できるよう美術館などを整備するなど、構造インフラそのものを問いかけたり、ストレート、スナップ、センセーション、インパクト、ドキュメンタリー、ジャーナリズムなどといった写真を巡るあらゆる評価軸や方法をもう一度全体として整理する活動へと発展させるのであれば、それはそれで意味があると思う。そもそもそういう構造がないところから写真は閉じて閉塞していく印象が強く、アートフェアからも「写真」というカテゴリーが消えていくところが増えているという。写真の面白さと価値を守る方法は、あらゆる方法を受け入れた上での活発な意見交換をすることであり、以前に書いたフラットな状況に抑揚をつけ、リズムを打ち、旋律を作ることであるはずだ。

写真は面白く、また写真はつまらない。これは写真に関わるようになって8年あまりの僕の実感だ。写真に関わるひとも同様、それがポップコーンのバレルの底にバターにまみれてうごめく、とは言い過ぎだとのおしかりを受けたが、一方で賛同者も多い。写真やカメラ熱にほだされてはじけたのはいいが、バレルから飛び出すのは簡単ではない。バターを塩に変え、バレルの壁を低くして、はじけるための温度を低くして、はじける種とはじけない種をうまく選別する、こういう変革を行うにもシステムが機能するしかない。

ぜひ鷹野さんたちには宣言の上に実践を構築していただき、写真の種類に関わらず写真の面白さが際立つような世界を構築する手助けをしてもらいたいと思っている。木村伊兵衛賞写真家や評論に責任をもつ人たちが立ち上がった訳だから、そればかりは実践していただきたいと願っている。

現在開催中の細江英公写真展「花泥棒」のトークショーが2月5日に開催されます。
TANTOTEMPOのトークショーは、1月20日をもちまして定員に達しましたので締め切らせていただきました。あしからずご了承くださいますようお願いいたします。

また、TANTOTEMPOトークショー特典付きの「細江英公文化功労者お祝い神戸の会」(神戸オリエンタルホテル同日午後7時開催)も残席数わずかとなっております。

なお、引き続き「お祝い神戸の会」につきましては、まだ若干数参加可能です。TANTOTEMPOのトークショーにはご参加いただけませんが、特典「花泥棒」特装版カタログがつき参加費は¥10,000(食事、飲み物込み)です。参加費はトークショー特典付きと変わりませんのでご注意ください。

いずれもお早めにお申し込みくださいますようお願いいたします。
お申し込みは
event@tantotempo.jp
あるいは
078-393-0810
までお願いいたします。

TANTOTEMPOでは、年間に最低一枚は写真作品を購入していただく表題のプログラムを1月の細江英公写真展から展開して参ります。

このプログラムは、写真展にご来訪くださりTANTOTEMPOのメールマガジンおよびOne Phorograph / One Year Programメールマガジンに登録くださる方に特典をご用意するもので、基本的に手続きは「1年に最低1作品は写真作品を買いますよ」と宣言するだけです。

細江英公さんの写真展期間中はTANTOTEMPOがデザイン制作した細江英公さん公認の特装版「花泥棒」カタログをプレゼントいたします。これはA5、8Pの小冊子で、5つのイメージが含まれるすてきなカタログです。

他の企画やイベントでは、それぞれに額装やイベントのディスカウントなど魅力的な特典をご用意することになっています。

本プログラムに登録をご希望の方は「宣言」とともにevent@tantotempo.jpまでメールをお送りください。または、TANTOTEMPOにてスタッフにお声をおかけください。

どうぞよろしくお願いいたします。
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細江英公さんの写真展、「花泥棒」が始まりました。初日の昨日からたくさんの来廊者がありました。

この写真展は細江英公氏と事前に打ち合わせをしてシリーズを決めていて開催したものです。関西にゆかりのある鴨居羊子さんをモチーフにしていることから、細江英公氏も大変喜んでご快諾いただいた経緯があります。TANTOTEMPOとしてもぜひ関西で反響のある写真展となるよういろいろ準備を行ってきました。

特に、鴨居羊子さんのゆかりの資料がないかファッション美術館の学芸員の方に問い合わせたところから、ファッション美術館が細江英公氏のコレクションを保有していることが判明し、細江氏もびっくりされたところから急遽神戸ファッション美術館でも写真展を同時開催することが決まっていきました。

TANTOTEMPOの写真展期間中、神戸ファッション美術館では1月27日(木)から2月8日(火)まで、非常に珍しいシリーズである「夜明け前(ルナ・ロッサ)」のコレクション10点に「抱擁」の大作品7点を加え展示をします。

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TANTOTEMPOのシリーズは故・鴨居羊子さんが作成した装飾を施された奇妙な人形を細江英公氏が預かり自由に撮影したシリーズです。細江氏は当時33歳、鴨居さんはすでに下着デザイナーとして頭角を現し、鴨居さんから人形を持ち込んで二人のコラボが実現した訳です。細江氏はこれらの人形を携えて東北や長野などで撮影をされたとのことです。人形は、線路や土、鉄線や木の枝に配置され、それこそ自由奔放な姿態で撮影されているのですが、何かユーモラスであるし悲哀に満ちているのです。細江氏も人形たちを不憫に思って、最後は「仏さまにすがるしかない」とばかりに、野仏の上に置いて撮影したりしています。

このシリーズは2004年に再プリントされ、2009年写真絵本「花泥棒」(冬青社)として出版されました。細江作品としては特異な作風ですが、本質的には人間の生業を描いているという点で細江英公氏の美学が貫かれていると思います。特に、鴨居羊子さん本人を撮影したポートレイトは壮絶な美を誇り、鴨居羊子さんの個性と細江英公氏の美学とがぶつかってできた奇跡的な写真だと思います。

すべての作品はお買い上げいただけます。細江作品としてはまだエディションもさほど進んでおらず、他の作品と比べると破格にお求めやすい価格ですので、細江英公さんのファンの方には非常に魅力的なのではないかと思います。

「花泥棒」をぜひTANTOTEMPOまでお越しになりご覧ください。


これに先駆けてTANTOTEMPOは年末の休業日を利用して壁塗り会を行いました。TANTOTEMPOと関わりのある写真家やスタッフで2日かけて釘の穴埋めを行い、漆喰塗料をローラーで塗っていきます。おかげでギャラリーの壁はまっさらなホワイトキューブを取り戻した訳です。壁塗り会に参加くださった皆さま、ありがとうございました。


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あけましておめでとうございます。
引き続きTANTOTEMPOをご愛顧くださいますよう、本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。

2011年も優れた企画をお届けいたします。一枚でも多くの作品を世に届けられるようがんばって参りますので、どうぞよろしくお願い申し上げます。

ギャラリーは1月8日(土)から、細江英公写真展「花泥棒」にて2011年がスタートいたします。

ぜひお越し下さい。