想像力を駆使せよ。写真レビュー会終わりました。

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先週末23日24日と、年末のTANTOTEMPO pure展出展の権利をかけてレビュー会を開催しました。

結論から言えば、9名の方がレビュー会に申し込んでくださり、TANTOTEMPO pure展に参加が決まったのが2名、あと1名はもともとTANTOTEMPOでの個展を目指しておられて参加されたプロフェッショナルの写真家で、この方はTANTOTEMPOでは3回目のレビュー、pure展は通り越して個展開催への展望がほぼ開けたと思います。残りの皆さんは、非常に惜しい方も含めると、いろいろな段階で苦労されている印象を受けた方々でした。北は横浜、南は福岡からの参加もありましたがいろいろ考えることもあり、少しだけその様子を書いておきたいと思います。

個々の評価はこちらには書きませんが、まず基本的な問いとしてそれぞれの方が写真の活動を通じてどういう写真のポジションを目指しているのかを尋ねてみました。「写真作家」になりたいのか、趣味として写真に関わっていくのかを尋ねてみたところ、結果として皆さんが写真作家を目指しているとのことでした。しかし、残念ながら作品を見てみると実際のところは目指しているポジションについて考えたこともないか、考えたことがあってもそれを実現するためにとるべき行動のイメージがまだない方がほとんどだったように思います。「写真作家になりたい」ということを実現するために超えなければならない道のりのイメージがないということは、それに向かって払うべき努力のイメージがないわけで、それでは作品制作の方向すらないことになってしまいます。それぞれの写真を拝見すると、到達点として描いているはずの目標が見えないものが多かったと思います。どこを目指しての写真活動なのか、ここには想像力が必要です。

次に個々の作品にどれくらいの価値があると思うか問いかけてみました。この段階でほとんどの参加者が混乱するのですが、その理由ははっきりしています。作家として写真の価値を理解し、新たな価値を創造するためには、世界中の表現者がどのような作品を制作していてそれがどのような価値を有しているのか知っている必要があります。写真の価値といったことを一度も考えたことのない人が自分の写真に価値があるかどうかを思い至る可能性は非常に低いと思います。写真を撮影して人に見せることだけを目的にしている限り、写真に価値は生まれません。自分の作品が、世界中に溢れているすでに地位を得ている表現と同等かそれを上回っていると確信する何か仕組みがないと、その作品は価値を有する可能性はとても低いのです。多くの人は、まずこの時点でレビューの本質から外れていくことになります。なぜなら、写真ギャラリーで写真のレビューを受けるということは、写真に価値があるかないかの判断をするわけだし、値段がつかない限りレビューは終了です。The End。

しかし、実際にはレビューは続きます。今度は制作上のヒントをいくつもいくつも提示し、作品を制作するということがどのようなことなのかを伝えていきます。例えば、ヨーロッパで著名な写真家の写真集を提示し、その中に描かれているテーマやモチーフ、美といったあらゆる芸術的な要素を参加者の前で解析していきます。普通の美しい風景写真と、アートとして解釈される風景写真との違いを明らかに見えるように解体していく作業を続けていきます。アート作品と言われる作品の制作途上に見いだされる、作家の意図するアートの仕組みを、参加者とともに解釈していくのです。この作業は、すべての参加者とともに繰り返し行い、すべての参加者が最終的に「作品」とは何なのかを理解できるようになったと思います。写真を作品として制作するためには、写真にアートとして理解してもらうための変換装置が必要であることを、特に作家を目指す方には理解していただく必要があるのです。そして、その点に気づくためには、やはり多くの著名な写真作品に触れる必要があるし、写真集などで写真の歴史から学ぶほかないということを理解していただいたと思います。この時点で、うちひしがれていた参加者の表情はむしろ非常に明るく、前向きな表情に変わっていきます。作品を制作する上で最も大切なことを気づかされたことへの納得と、作品を制作する上でどうテーマやコンセプトと向き合うべきなのか迷っていた人たちには願ってもないヒントとなったと思います。

レビューとは本来冷たいものです。レビューには厳然とした壁があって、その先に進むかそこに留まるかが冷徹に判断されます。レビューを通過するかどうかの理由を示すレビューはむしろ少数派で、そこでどういう評価を私たちが下しているのかは参加者の皆さんが推しはかるしかないのです。それは本来自分の力で勝ち取るべきものだし、誰かがそれに気づかせてくれるほど甘いものでもないのです。

たとえば、音楽業界のことを考えてみて欲しいと思います。ライブや音楽会で演奏される完成度の高い音楽。また、全くといっていいほどミスタッチのない演奏。僕たちは普段音楽を聴くとき、演奏の完成度を意識することはほとんどありません。僕たちがお金を払って購入する音楽は、基本的にすでに演奏の基本的な要素、つまり音を作る上での完成度について、それがお金を支払う上でなんら問題がないことを何らかの仕組みの上で担保されているのです。その音楽を、僕たちはプロの演奏した作品として認めているのです。

その演奏家の完成度を写真家に適用するとどうなるのか考えていただければ、楽器とカメラという道具が等価に変換されるものではないことを十分に理解したとしても、写真が完成度を問う仕組みを持たずいかに担保のない浮遊した状態で不安定に漂っているかがわかると思います。演奏家は自らのセンスの上に恐ろしい練習量によってのみ技術を上乗せすることができ、それが完成して初めてプロとしての地平に到達することができる非常に厳しい世界であることは誰もが知っていると思います。楽器の演奏自体が容易ではないからです。楽器を演奏するミスタッチのない高い技術の上にさらにオリジナリティや音楽上の世界観を持っていないと一流のアーティストとして収入を得ることができない、音楽はそういう世界なのです。写真も、突き詰めると同じなのではないでしょうか。カメラが優秀なので最近はどなたが撮影してもそれなりの作品に仕上がりますが、単に4辺の平面にすぎない所に作品のテーマやコンセプトを埋め込み他の表現者よりも優れたものを制作するとなると、より高い意識でよりよいものを作らないと作家としてその価値を問えないのではないかと思います。その点は写真は音楽より厳しいと思います。

写真の底辺が広がっていくことはすばらしいことだと思います。関西御苗場などのイベントも、写真のある種の道筋を見せるものとしては大変有効かもしれません。しかし、そこからステップアップするために必要な知識や想像力が写真を撮って作品を制作しようとする皆さんに備わっているでしょうか。関西御苗場で拝見した限り、写真の歴史をひもといたりイマジネーションの広大な世界で作品を構築する努力をしている方は少数派で、見たことのある美、自己の内面の小さな発露を試みているかたが大変多かったと思います。身近なところで美しいものを作ろうとしたり内面的な表出をいくら試みたところで、それは音楽でいうところの自宅練習のレベルだと思います。そこから意識的に想像力をフル動員して、誰も見たことのない、あるいは、誰よりも美しいイメージの高みを目指して活動をしていくしかないと思います。

一方、担い手にも努力が求められます。写真に階層があるべきかどうかは議論が必要でしょうが、そのピラミッドの全体を見えやすく作っていかないと一般の人にはますます魅力のない世界になっていくと思います。美術館や百貨店の写真展には大変多くの方が訪れるのに写真を買う方が増えないのは、写真作品が価値のあるものとして納得させる魅力を示せていないからです。写真は現在どこが頂点なのか、誰が頂点を決めているのか、現代アートの写真とクラシックな写真との棲み分けはどうなっていくのか。写真の文脈を正しく読み取る教育とそれを次の世代に伝える人たちを育てることなどなど。写真はもっとダイナミックに変化していく必要があると思います。

9名のレビューを終えて、僕は心底疲れ果てましたが、一縷の望みも見つけることができました。皆さんが今後新たな気持ちから写真に取り組まれて作品のレベルをあげていくところを眺めていたいと思います。それがあるレベルに達して展示にふさわしい品格と文脈を得ることができれば、僕は彼らを真っ先にギャラリーで紹介しようと思います。

レビューに参加くださった方々、おつかれさまでした。また作品をお持ちください。いつでも拝見したいと思います。

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