2010年10月アーカイブ

TANTOTEMPOも開設後2年半となり、様々な写真活動に参加することができるまでに少しずつ成長してきていると思います。これも神戸や関西を中心に、東京や遠くは北海道からも写真展に駆けつけてくださったり、作品をご購入くださる方がいらっしゃるのと、写真展開催に非常に協力的でいてくださる写真家やギャラリーなど、みなさん応援してくださる方ばかりだからだと大変感謝しています。決してぬるい活動はしないし、常に写真の本質的な部分に触れようとする僕たちの活動が、ある意味応援してくださる方々と響き合うのかな、とも自負しているところです。僕たちは、さらにがんばって、いろいろな写真に関連するアイデアを皆さまに問い続けられる良きギャラリーになれるのかどうか、襟を正して進んでいく必要があります。

しかし、これらの活動は僕の相棒であるたった一人の勇気ある女性の手によってプロデュースされている壮大な事業です。僕がアイデアを出し、彼女がそれを承認し、すべては彼女の個人の資金で賄われています。新たな方向性を伝えたり、新しい写真家と組むときに、彼女の献身的な努力があらゆるプロジェクトを下支えしています。写真ギャラリーでも純粋に写真だけで企画ギャラリーを貫き通すことがほとんど不可能とも思えるこの時代に、このようなチャレンジをしていることをどうぞ皆さまにもわかっていただきたく、10月のイベント月間に「やまだかふぇ」を開設する運びとなりました。彼女の名は、"やまだ"です。

10月30日31日の週末、Cafe TANTOTEMPOは2日間だけ「やまだかふぇ」となり、ハロウィーンのささやかな飾り付けのもとTANTOTEMPOオーナーの"やまだ"とスタッフが腕を振るって作ったクッキーやケーキを皆さまに振る舞ったり、お求めいただくカフェといたします。

どうぞ皆さま、お気軽にお越し下さい。そして"やまだ"に少しだけお声掛けをよろしくお願いいたします。「がんばってね、応援しているよ」「また写真買いにくるね」など、声をおかけください!

台風でお足下が悪い可能性があります。どうぞお気をつけてお越し下さい。
31日午後5時前後には、サプライズゲストの来訪もあるかもしれません。(中止になる可能性もあります)

どうぞ今後ともTANTOTEMPOをよろしくお願いいたします。
先週末23日24日と、年末のTANTOTEMPO pure展出展の権利をかけてレビュー会を開催しました。

結論から言えば、9名の方がレビュー会に申し込んでくださり、TANTOTEMPO pure展に参加が決まったのが2名、あと1名はもともとTANTOTEMPOでの個展を目指しておられて参加されたプロフェッショナルの写真家で、この方はTANTOTEMPOでは3回目のレビュー、pure展は通り越して個展開催への展望がほぼ開けたと思います。残りの皆さんは、非常に惜しい方も含めると、いろいろな段階で苦労されている印象を受けた方々でした。北は横浜、南は福岡からの参加もありましたがいろいろ考えることもあり、少しだけその様子を書いておきたいと思います。

個々の評価はこちらには書きませんが、まず基本的な問いとしてそれぞれの方が写真の活動を通じてどういう写真のポジションを目指しているのかを尋ねてみました。「写真作家」になりたいのか、趣味として写真に関わっていくのかを尋ねてみたところ、結果として皆さんが写真作家を目指しているとのことでした。しかし、残念ながら作品を見てみると実際のところは目指しているポジションについて考えたこともないか、考えたことがあってもそれを実現するためにとるべき行動のイメージがまだない方がほとんどだったように思います。「写真作家になりたい」ということを実現するために超えなければならない道のりのイメージがないということは、それに向かって払うべき努力のイメージがないわけで、それでは作品制作の方向すらないことになってしまいます。それぞれの写真を拝見すると、到達点として描いているはずの目標が見えないものが多かったと思います。どこを目指しての写真活動なのか、ここには想像力が必要です。

次に個々の作品にどれくらいの価値があると思うか問いかけてみました。この段階でほとんどの参加者が混乱するのですが、その理由ははっきりしています。作家として写真の価値を理解し、新たな価値を創造するためには、世界中の表現者がどのような作品を制作していてそれがどのような価値を有しているのか知っている必要があります。写真の価値といったことを一度も考えたことのない人が自分の写真に価値があるかどうかを思い至る可能性は非常に低いと思います。写真を撮影して人に見せることだけを目的にしている限り、写真に価値は生まれません。自分の作品が、世界中に溢れているすでに地位を得ている表現と同等かそれを上回っていると確信する何か仕組みがないと、その作品は価値を有する可能性はとても低いのです。多くの人は、まずこの時点でレビューの本質から外れていくことになります。なぜなら、写真ギャラリーで写真のレビューを受けるということは、写真に価値があるかないかの判断をするわけだし、値段がつかない限りレビューは終了です。The End。

しかし、実際にはレビューは続きます。今度は制作上のヒントをいくつもいくつも提示し、作品を制作するということがどのようなことなのかを伝えていきます。例えば、ヨーロッパで著名な写真家の写真集を提示し、その中に描かれているテーマやモチーフ、美といったあらゆる芸術的な要素を参加者の前で解析していきます。普通の美しい風景写真と、アートとして解釈される風景写真との違いを明らかに見えるように解体していく作業を続けていきます。アート作品と言われる作品の制作途上に見いだされる、作家の意図するアートの仕組みを、参加者とともに解釈していくのです。この作業は、すべての参加者とともに繰り返し行い、すべての参加者が最終的に「作品」とは何なのかを理解できるようになったと思います。写真を作品として制作するためには、写真にアートとして理解してもらうための変換装置が必要であることを、特に作家を目指す方には理解していただく必要があるのです。そして、その点に気づくためには、やはり多くの著名な写真作品に触れる必要があるし、写真集などで写真の歴史から学ぶほかないということを理解していただいたと思います。この時点で、うちひしがれていた参加者の表情はむしろ非常に明るく、前向きな表情に変わっていきます。作品を制作する上で最も大切なことを気づかされたことへの納得と、作品を制作する上でどうテーマやコンセプトと向き合うべきなのか迷っていた人たちには願ってもないヒントとなったと思います。

レビューとは本来冷たいものです。レビューには厳然とした壁があって、その先に進むかそこに留まるかが冷徹に判断されます。レビューを通過するかどうかの理由を示すレビューはむしろ少数派で、そこでどういう評価を私たちが下しているのかは参加者の皆さんが推しはかるしかないのです。それは本来自分の力で勝ち取るべきものだし、誰かがそれに気づかせてくれるほど甘いものでもないのです。

たとえば、音楽業界のことを考えてみて欲しいと思います。ライブや音楽会で演奏される完成度の高い音楽。また、全くといっていいほどミスタッチのない演奏。僕たちは普段音楽を聴くとき、演奏の完成度を意識することはほとんどありません。僕たちがお金を払って購入する音楽は、基本的にすでに演奏の基本的な要素、つまり音を作る上での完成度について、それがお金を支払う上でなんら問題がないことを何らかの仕組みの上で担保されているのです。その音楽を、僕たちはプロの演奏した作品として認めているのです。

その演奏家の完成度を写真家に適用するとどうなるのか考えていただければ、楽器とカメラという道具が等価に変換されるものではないことを十分に理解したとしても、写真が完成度を問う仕組みを持たずいかに担保のない浮遊した状態で不安定に漂っているかがわかると思います。演奏家は自らのセンスの上に恐ろしい練習量によってのみ技術を上乗せすることができ、それが完成して初めてプロとしての地平に到達することができる非常に厳しい世界であることは誰もが知っていると思います。楽器の演奏自体が容易ではないからです。楽器を演奏するミスタッチのない高い技術の上にさらにオリジナリティや音楽上の世界観を持っていないと一流のアーティストとして収入を得ることができない、音楽はそういう世界なのです。写真も、突き詰めると同じなのではないでしょうか。カメラが優秀なので最近はどなたが撮影してもそれなりの作品に仕上がりますが、単に4辺の平面にすぎない所に作品のテーマやコンセプトを埋め込み他の表現者よりも優れたものを制作するとなると、より高い意識でよりよいものを作らないと作家としてその価値を問えないのではないかと思います。その点は写真は音楽より厳しいと思います。

写真の底辺が広がっていくことはすばらしいことだと思います。関西御苗場などのイベントも、写真のある種の道筋を見せるものとしては大変有効かもしれません。しかし、そこからステップアップするために必要な知識や想像力が写真を撮って作品を制作しようとする皆さんに備わっているでしょうか。関西御苗場で拝見した限り、写真の歴史をひもといたりイマジネーションの広大な世界で作品を構築する努力をしている方は少数派で、見たことのある美、自己の内面の小さな発露を試みているかたが大変多かったと思います。身近なところで美しいものを作ろうとしたり内面的な表出をいくら試みたところで、それは音楽でいうところの自宅練習のレベルだと思います。そこから意識的に想像力をフル動員して、誰も見たことのない、あるいは、誰よりも美しいイメージの高みを目指して活動をしていくしかないと思います。

一方、担い手にも努力が求められます。写真に階層があるべきかどうかは議論が必要でしょうが、そのピラミッドの全体を見えやすく作っていかないと一般の人にはますます魅力のない世界になっていくと思います。美術館や百貨店の写真展には大変多くの方が訪れるのに写真を買う方が増えないのは、写真作品が価値のあるものとして納得させる魅力を示せていないからです。写真は現在どこが頂点なのか、誰が頂点を決めているのか、現代アートの写真とクラシックな写真との棲み分けはどうなっていくのか。写真の文脈を正しく読み取る教育とそれを次の世代に伝える人たちを育てることなどなど。写真はもっとダイナミックに変化していく必要があると思います。

9名のレビューを終えて、僕は心底疲れ果てましたが、一縷の望みも見つけることができました。皆さんが今後新たな気持ちから写真に取り組まれて作品のレベルをあげていくところを眺めていたいと思います。それがあるレベルに達して展示にふさわしい品格と文脈を得ることができれば、僕は彼らを真っ先にギャラリーで紹介しようと思います。

レビューに参加くださった方々、おつかれさまでした。また作品をお持ちください。いつでも拝見したいと思います。
suda_nude002.jpgTANTOTEMPOでは、日本を代表する写真家である須田一政写真展を2010年11月6日(土)より開催いたします。

須田一政さんは1940年東京生まれ。第1回東川賞、第16回土門拳賞を受賞、現在も大阪芸大写真学科で教鞭をとるかたわら長年写真塾で後進に作品制作を教えるなど、写真作品の制作だけではなく、写真の教育や普及に多大なご貢献をされている日本を代表するすぐれた写真家です。その作品は国内だけにとどまらず海外にも多くコレクションされています。

TANTOTEMPOでは、氏の作品の中から、2つのシリーズをセレクトし、須田一政さんが作品制作のテーマとしてあたためてこられた"NUDE"のシリーズ、
"千代田の松"のシリーズをまとめて「血と肉」として企画展示いたします。

"NUDE"のシリーズは、一人の女性を長年撮影されてこられたシリーズで、躍動する肉体としての女性像と、造形としての女の肉体をそれぞれ展示し、NUDEから印象づけられる固定概念としての肉体のあり方を問いかける展示としています。生に意味をもたらす情動や血が流れるそのことが美しい肉体を支えていることを示し、"千代田の松"に繋がるよう工夫しています。

"千代田の松"のシリーズは、皇居周辺に植わった松を撮影したシリーズで、東京の都市風景の中に松がたたずむ様子や松の造形そのものを撮影しています。皇居の松自体は1940年頃に宮城外苑整備事業で整備されたものですが、基本的には長寿の象徴として描かれるものです。松はまた盆栽などでもその造形が競われるなど、枝を自由にのばし風景に何かしら気(エーテル)を投げかけているようにも見えるものです。"千代田の松"のシリーズには赤外線フィルムを使うことで松の幹を支える生命の情動、血を撮影しようと試みたようにも見える作品もあり、都市風景の作品とあわせ面白い構成となる予定です。

TANTOTEMPOでは2010年11月6日(土)から12月5日(日)まで、須田一政さんの写真展を開催します。

12月4日午後5時から須田一政さんにお越しいただいてギャラリートークを開催いたします。
参加料¥2,000(レセプションパーティーつき)、お申し込み先着40名様となっています。
ぜひお楽しみに。

IMG_0275.jpg関西御苗場写真イベントが10月12日から17日の日程で大阪、海岸通CASOにて開催されました。

僕も昨年に引き続きレビュアとしてお呼びいただき、14日16日と最終日17日の表彰式とCASOを訪れ、多くの方の作品に触れることができました。

この写真イベントは、写真を始めて間もない人からある程度実力を備えている写真家まで、あまり制限を加えずに写真作品を募集・展示し、レビューを受け、最終的には表彰を受けるというイベントです。また、一般ブースと写真を学ぶ学生のブースとをもうけているのが特徴かと思います。もちろん、コンテストではないので単に優劣を競うものではなく、あくまで写真家と写真家の作品を社会に問いかける、またすぐれた作品はアートや写真の担い手につながる仕組みを有しているのが最大のポイントとなっているのです。

レビュアは写真やアートの担い手にゆだねられていて、ThirdGalleryAyaさんやTANTOTEMPO、ShakeArtさん、東京のB Galleryさん、digmeout art & dinerさんなど、それぞれ特徴のある活動を行っているアートの担い手が会期中会場を訪れ、写真家はそれぞれのレビュアに自分の作品を示しレビューを受けることができるようになっています。

僕も3日間に25名近い写真家と話をすることができました。声をかけていただいた方も多かったのですが、今回はこちらから声をかけてのレビューも行うことにしました。

全体的な印象ですが、昨年と今年とを比べてみて全体的には質が向上していることがうかがえる展示だったと思います。募集開始からブースが埋まるまでさほど時間がかからなかったと聞きます。参加者のこのイベントへの期待度がうかがえます。また、運営上も、事前に出展を考えている方に作品作りや展示方法についてヒントを与えるイベントを開催するなど、多くの時間をさきながら熱心にイベントの全体像を構築する努力を払っておられたことが印象的でした。レビューをする我々にはノミネート作品を3作家選びその中から最優秀の写真家を選ぶよう指示がありました。

さて、全体を見渡して単純に構成だけで眺めてみると、全体の2/3以上がある種ストーリーやコンセプトに基づいて構成された組み写真、1/6が写真そのものの美しさを問いかけている写真、残りがそれ以外の写真、といった区分だったかと思います。多くの方がストーリーやコンセプトを問いかける構成にチャレンジしていた訳ですが、さて展示された方の意図がどれくらい伝わったのか、ノミネートや表彰に至った作品も含めて少し厳しい現実があったと思います。写真が理解されたのか、理解されなかったのか。

僕がレビューをさせていただいた方の所感を書いてみようと思います。

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鍋田さんは昨年に引き続きの出展でした。昨年は自分と家族とをモチーフに未来へとつながる不安や希望を表現されていました。今年の展示は、写真プリントの表面がスクラッチのようにはがれた作品を展示されているのが印象的でした。「これはスクラッチですか」と問うと、水の中に放置して自然にはがれたものだとの説明がありましたが、写真の表面を傷つける手法自体はあまり珍しくはありません。映り込んでいる元々の写真自体がわかりにくく、1枚しか読み取れなかったためいわゆる技法で見せようとする作品だったかと思います。写真の表面の傷が「写真」という実体にどう変化を及ぼすか、というコンセプトでしたが、それならもう少し本来の写真の内容を工夫しておいたほうが良かったのではないか、と評をさせていただきました。







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大島さんは「闇を穿つ」という表題で展示をされていました。明らかに暗い背景と、ストロボ撮影で得られた強いコントラストの人物や手、動物などを配置し、文字通り闇に閃光を放つことから得られるそのとき浮かび上がった像を孔を穿つ、穿孔、と比喩するコンセプトで描いている作品でした。彼女の作品にはわかりにくさはなく、写真のひとつの試みを行っている雰囲気が強く好感が持てました。また、「食べる」という表題のブックが置いてありましたが、人間本来のもっとも原始的な行為のひとつである「食べる」という行為について、ブックでうまくまとめあげているのが印象的でした。凝った演出もない、忠実に研究を繰り返しながら作品を構成しているかのような印象を持ちましたが、すこし地味な展示でもありました。彼女の作品は研究の熱心さに対してノミネート作品に選考しました。







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臼井さんは郊外や地方で撮影した黄金色の風景をまとめた力作でした。光線の加減がもっとも美しい時間にその町を歩き、どの作品にも黄金の光が降り注いでいる美しい風景写真でした。全体のまとまりもよく、意図もはっきりしており人々のこころに響く作品だと思いましたが、まとまりが良い分作風が古く感じられるため、例えば都市風景なども混ぜて全体のスケールを大きくするなど、展示も工夫する必要があると感じられました。












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松浦さんは昨年に引き続きの参加かと思います。昨年の展示は日常の何気ないスナップに自分と社会の距離感を表出する作品だったかと記憶しています。今年は全体を黒を基調としたまとまりを見せる作品でしたが、「臨界」という自己の内面に溜めたものを写す鏡としてイメージを配置する意図があったかと思いますが、コンセプトに近寄るのかコンセプトから遠ざかるのか迷っているような作品が混ざっていたのが残念でした。こういうコンセプトは全体にひとつでも異質な作品が混じると崩れてしまいかねないし、もともとわかりにくい作品なのでより注意を払う必要があると思います。しかし、1年で成長しているように感じられる展示でした。









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永井さんはRailwayとその界隈を撮影した作品です。全く文句の付けようのないイメージの質の高さと構成で、鉄道系の写真を列車そのものから離して構成されていたのが印象的でした。永井さんの作品の完成度は高く、御苗場のあとの目標も出版など、一般に届く展開もあるかと思います。アートのフィールドではありませんが、コンセプトに忠実な作品の作り方を具現化しているお手本のような展示でした。












その他にも、石橋英之さんはポラロイド写真をポラロイド撮影する手法を繰り返し、その中に音声から文字をおこし詩を綴ったイメージなども重ねて作品を作り上げる、手の込んだ優れたアート作品でした。多くのレビュアがノミネートに選出していましたし、僕もノミネートしました。基本的にはアートの要とも言える美的素養(センス)と独自の世界観を作っていたと思いますが、それを支えるステートメントと作品の間に寄り添えない距離があるように感じられました。ステートメントを重くしすぎて作品が重々しく感じられ魅力を失っているかのような印象を少し受けてしまいました。しかし、手法について先行作品がないか検討し(フィルムやデジタルでは行われているようです)、大仰なステートメントを研ぐと、より的確な評価につながる可能性はあると思います。絵画的にいくか写真のディテールを残すかでも作品の幅をいくらでも拡張させることもできるため、展開次第では非常に楽しみな表現でもあります。スペインでの個展が開催されると聞きます。TANTOTEMPOでもグループ展の経歴があり、ぜひ成功させて帰ってきて欲しいと思います。

川㟢さんは自身の祖父を撮影した非常に力強い作品でした。写真のもつパワーを最大限に利用した大作品で、撮影した祖父像に祖父の人間の豊かさや人柄を落とし込むことに成功した非常に優れた作品でした。みかんを頭に載せたカットは、それだけで見たものを驚かせる作品でしたが、これを撮影した川㟢さんと祖父さんとどちらが表現や演出の主役だったかを作家ご本人からお聞きすることがなかったため、僕自身は次点とさせていただきました。digmeoutさんがレビュアー賞に選出されていました。すばらしい作品であることは誰が見ても間違いないと思います。

かさわきじろうさんは初めて人前で展示したとのことでしたが、僕が選出したTANTOTEMPO賞の受賞者です。かわさきさんの作品は、空にレンズを向けて撮影するその枠内に町にあふれるごくごく小さなモチーフを写しこんで撮影する作品を作っておられました。制作の仕上がりは粗いし、コンセプトはまだいろいろ詰めていく必要はあるけれど、9作品のうち3つの作品が特に秀逸で、見たことのない作品でした。空の広大さに、対比としてエレメントのように突き出てくる町を構成する突起物の小さな一部。このアイデアだけで整ったシリーズを広大に制作できるくらい独自の面白い着眼点の作品だったと思います。先行作品がないかよく研究して(ヒントを差し上げました)、作品をA1くらいの作品で仕上げてくると、世界に通用する表現になる可能性もあります。TANTOTEMPOでは今年年末のグループ展で皆さんに確認していただこうかと思っています。

このように、多くの作品について、「写真の担い手の目」という視点で様々に所感を構成し即座に答えを伝えるのがレビューです。レビュー自体は客観的であるはずもありませんが、全体的に見ていても同じ写真家が異なった担い手により選出されるなど、なにかしら共通項としての判断基準のようなものがあることがうかがえます。それがこの世界の様々なアートに備わるべき美学や写真を体系的に見ることのできる視点なのだと思うし、一部のプロの担い手、また写真を見ることを楽しみにしている一般の方々の厳しい視線の中にもあるものだと思っています。それが育たないことには、すぐれた作品を作るひとを育てることはできないし、写真を理解する社会を作ることもできないと思います。美学や時代背景から自身の立ち位置を問う力、社会の状況に応じ表現を使い分ける方法、写真やアートを読み解く能力、またそういったものを養う文化を、僕たちは決しておろそかにしてはいけないのです。

写真を展示するという行為には写真を使って社会に参加するという意味があります。社会に参加するという行為は、自分が訴えることで他者がどのように評価するのかを問いかけることで、その場にいる自己と社会との間に窓を開け放つ行為ということもできると思います。この行為には責任が伴います。しかし、なぜか多くの展示は窓辺に作品を置かず中を覗き込むように窓を開いているだけで、その中には何も見えないか、何か謎のように作品を構成して観察者に中に何があるのか読み解かせるようにし向けられます。私たちに寄り添わない、私たちを試すようなこれらの作品が人々に響くことがあるのか、甚だ疑問です。どうしてわかりにくい表現がこれほどまでに増えてきたのか、昨今の写真の導き手である写真賞周辺に選ばれていく若手写真家の潮流とも言うべきものかもしれません。僕個人の意見で書くと、こういう導き手の写真は得てして一般の方が選ぶものではなく、多くの場合は同じような表現者が選定しているため、写真の理解が深い人だけが解釈できる傾向があるのだと思います。若い方が、そのような作品制作を行うことが潮流だと考えて作品を作り構成展示することはほとんど無意味か、大変リスクを伴い、今後の作品作りに必ずしも生きていかないと思います。写真の不理解や「わからなさ」はある意味世界的な傾向ではあるのですが、アルルなどで体験する海外のわからなさには美学が伴っていて、それが美しい限りにおいて人々は「わからなさ」そのものには寛容です。ピカソやダリなどシュールリアリズムの表現がアートの根底に次第に行き渡ったことと日本の写真の現在の「わからなさ」とはまったく異なると思っています。わからなさは、そのまま「無意味」nothingと解釈されてしまい、社会からは理解できないことを理由にスルーされる可能性が高く、そういう表現が増えれば増えるほど人々は写真から遠ざかると思います。若かりし日の苦悩でありどろどろとした観念を伝えたいのであれば、それは誰かに覗き込んでもらうためにただ窓を開くことではなく、パンクロックのように窓を開け放って自分から新しい価値を創造し社会に飛び出すことでしか達成できないと思います。写真の特性を本当に良く勉強し、歴史からすぐれた作品を学び、アイデアが次々と膨らみながら拡張する姿勢の美しい作品を社会に問いかけること、僕はそれを表現の第一歩だと考えています。

去年に引き続きこのような機会を与えてくださったPHaT PHOTOテラウチマサト編集長ならびにCMSの小倉さん安藤さん竹中さん速水さん牛島さんほかスタッフの皆さん、メリケン画廊木下アツオさんくきもとさんほか多くのナエバースの皆さま、ありがとうございました。たくさんの表現者の皆さま、お疲れさまでした!
IMG_0272.jpg10月16日、写真家の大和田良さんがTANTOTEMPOに来られトークショーを開催しました。

「写真と言葉」と題された今回のトークショーは、写真のもつ豊かな表現力に最大限注意を払いながら写真を制作する大和田さんにTANTOTEMPOでの特別展示を依頼、「ノーツ・オン・フォトグラフィー」という著作を出版された背景について語っていただく企画として提案させていただきました。

写真を撮るという行為には必ずしも何か特別の意図がある必要はありませんが、写真作品を制作するとなると何かしら作家としての意図や作品の意味づけがあるはずです。大和田氏はそれを「ステートメント」というくくりで丁寧にわかりやすくお話くださいました。CV(curriculum vitae)上に表現される自身の履歴からプロフィール、写真としてどのような制作をどのような文脈で行っているのかを作家としてのステートメントとして表現し、自身の人となりを他者に伝える必要があること、またある作品シリーズを制作するプロセスをきっかけから仕上げまでどのように作品に反映させていくのかを、「ワイン」のシリーズなどを紹介しながら語っていただきました。

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これらステートメントの作成は、多くの写真家が実践しているようで実は実践されていないことを大和田さんも指摘されていましたが、実は僕も国内の若手写真家の多くがこういったステートメントをまとめることなく写真を制作しているのではないかと思っています。あるいはまとめていてもおそらく他者に自分の作品世界を伝えるまでには至ってないことがほとんどです。それが問題かどうかは別にしても、どうしてこれらのステートメントが海外の写真家を紹介するウェブサイトでは見かけるのに、日本の写真家のサイトでは見かけないのか。それは写真を制作する側においてはまさにリテラシーの高さ、低さの問題なのだと思うし、写真の担い手側としてのコンテストやレビュー会、ギャラリーですらそのような形式での取引を要求していないからにほかなりません。リテラシーという言葉を辞書で引くと「読み書き能力」と書いていると思いますが、要は写真に込めた様々な思いを誰に、どのように伝え、どの活動エリアに自分を到達させるのかを考えているか、という点に尽きると思います。そしてこういったことが日本の写真教育からは今のところ欠落しているし、それが英訳されて英文のステートメントとして制作されない限り、海外の活動につながるはずもない、ということなのです。

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大和田さんのトークには、本当にたくさんの情報が満ちていました。特に現在取り組まれている新しいシリーズの制作過程は、その契機から計画立案、リサーチ、先行研究、試作、推敲とあらゆる部分に緻密に神経を行き渡らせる作家としての成り立ちが垣間見え、参加者の皆さんも驚かれたと思います。しかし、別の観点でみると、まさに写真家としてプロというのはこういうものだ、と示しているにすぎないとも言えるのです。

折しも今週のはじめから始まった2010年の関西御苗場では130を超えるブースに多くの若い表現者が作品を掲示し、にぎやかに展示がされました。力作も多く、迫力のある、また意味のある展示も多かったと思いますが、一方で何を表現したいのか、誰に見て欲しいのか、どのような活動を目指しているのかわからないものも多かったと思います。2年連続で拝見して成長されていた方もいらっしゃいましたが、逆の方もあったかと思います。基本的な素養や写真の歴史に照らした研究、撮影や制作の技術、展示の方法やタイトル、キャプションなども評価の対象になることを忘れてはなりません。それでも、参加しないことには始まらない、とのPHaT PHOTOテラウチマサトさんの発言はとても大事だと思います。

残念ながら大和田さんの司会で行われた今日の御苗場のイベントは聞けませんでしたが、写真のあらゆる部分に言葉が密接に関わっていることを大和田さんは示してくださったと思います。大和田さん、本当にありがとうございました。また、本イベントにご参加くださったかた、ありがとうございました。

次回、レビューをさせていただいた中から少し紹介したいと思います。
IMG_8336_1.jpg昨日、TANTOTEMPOでは柿島貴志さんをお招きしてトークショーを開催しました。これまで何度か情報を掲載していますし、既にご存知のかたも多いと思いますが、柿島さんは独自に写真レーベルを立ち上げて東京方面で活動される写真アートの担い手です。
写真レーベル、という言葉についてまず説明されていましたが、展示空間としての箱を持たないギャラリストという考えかと思います。写真家と組んで写真展企画を立てるほか、額装やイベントへの参画、家庭やショップなどの写真空間の創生など、写真アートに関連するあらゆることを手がけているプロフェッショナルです。

彼はまた、マレビトスクールという写真のワークショップを写真研究者の小林美香さん、国内でもっとも優れていると名高いプリンターの久保元幸さんなどと立ち上げておられ、写真家や写真愛好家に対して写真の活動を高めるよう促す取り組みを行っています。このマレビトスクールを立ち上げたきっかけは、国内の写真界の閉鎖的な状況に危機感を持ったことだと話され、写真のマーケットが生まれてこない主な原因は写真家とカメラメーカ、写真愛好家だけがたこ壷の中に生態系を作り上げてしまって、社会との関係性を作れないでいるからだ、と厳しい指摘がありました。

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続いてマレビトスクールでの活動を具体的に紹介していただきました。ポートフォリオの作り方も、どのような相手に見せるのか、どのような写真の枠組みに参加するのかによって異なってくる、との説明がありました。少なくともポートフォリオというものは写真家と社会とがつながる最初の場所であり、その制作にいかにこころを行き渡らせることが大切かを説明されていました。ポートフォリオはいわば初デートに望むようなものだ、との小林美香さんの言葉を紹介し、この言葉の流れのなかから「モテる写真」という画期的な言葉が発生したのだと説明されると、会場内は楽しげな笑いで満たされ、柿島さんのペースでトークショーが進められていきました。ポートフォリオの見せ方だけでなく、ポートフォリオを持ち込む時のマナーや、見てもらったあとにも常識として礼節を尽くす必要があるのではないか、このあたりの人間的なおつきあいの常識がないといかに優れたイメージを持っていても写真から世界をこじ開けることはできないのではないか、との非常に大切なことを話されていました。

写真作品が多くのシーンでシートで取り扱われる点に疑問を呈され、額装や展示方法へのこだわりについて話されました。具体的に尾黒作品の額装や展示シーンなどをスライドショーにて見せてくださり、家具や空間にマッチした展示のクオリティーを作ることが大切だと話されました。

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神奈川の古民家カフェの空間をプロデュースする活動ではbefore&afterが紹介されていましたが、マレビトスクールをあげての総力戦でなんとも贅沢な美しい空間が出来上がっていました。まさにTotal Photographyと言えるような高品位な活動で、会場はため息に包まれていました。

最後に、東京や横浜といった関東圏で行われているライフスタイルの中にアートを取り入れてもらおうとする活動がいくつか紹介されていました。家具店や住宅販売イベントの連携など、写真と生活を関連づけるイベントが最近多くなってきているようです。そのあたりがどれくらい生活の中にアート写真を飾る行為に影響するかは未知数だが、こういう一般の方の視線に触れる活動が深まれば写真のマーケットは必ず形成されてくるはずだ、と締めくくってお話をされました。

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マレビトスクールでの柿島さんはじめ行動力をもっている写真の担い手が、日本の写真の中心である東京で写真の未来をつくるべく活動していることは、地方都市で同じような考え方で活動しているTANTOTEMPOの活動に非常に大きな勇気を与えてくれるものだと思います。社会との関わりや基本教育のなさが写真活動を非常に窮屈にしている日本の現状は、まさにたこ壷です。さらに、写真家あるいは写真愛好者だけが閉じた生態系の中にいる現状、また写真家が不勉強であったり他の写真家の写真作品に興味を持ったり買ったこともない状況のなかで、写真のレベルが向上し活動が一般化していく可能性はとても低いと考えられます。しかし、その現状に問題があると気がつくこと、気がついて行動を起こすこと、その行動を多方面から支援すること以外に写真が欧米のように活発なマーケットを有するように変革させることはできません。

今後のマレビトスクールの活動に注目していたいし、もし何らか協業できる活動が描けるのであれば、TANTOTEMPOとしても全面的にお手伝いさせていただきたいし、写真文化のことを話し合っていきたいと思っています。またTANTOTEMPOも柿島さんたちの活動から、いろいろお教えいただきながら活動を高めていきたいと考えています。

大変お忙しい中はるばる神戸TANTOTEMPOにお越しくださった柿島貴志さん、本当にどうもありがとうございました。今度は東京でお目にかかりたいと思います。


関連サイト

写真の未来

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表題からすれば、写真の未来について僕が確たる信念で語っていると思うかもしれません。

しかし経験上、「写真」というものが漂流をしていて定位を失っているかのように感じる僕に、そもそも「写真」が漂流しているのかいないのか、どこに向かっているのか明確に答えられる人もいないのです。写真が漂流している、という事実にさえ目を向けない人もいるわけですが、写真が漂流しているかどうかもさほど大事なことでないこともまた事実です。写真という表現や方法論にはこれからも繁栄が約束されていることは間違いないし、栄えている限り写真の莫大な価値から誰かが利益をあげていくには違いがないのです。その一方で、写真の価値を認めない、あるいは価値を読み間違えて大安売りをしている人たち、大安売りをすれば市場が開けるのではないかと愚かな考えに取り憑かれた人たち、また写真のどこに価値があるのか、写真にどうやって価値を創造するのかを真剣に考えない表現者たちは、写真から利益をあげることができるはずもなく、いずれこの世界を去っていくことになるのかもしれません。

小さな写真専門ギャラリーの経験の浅いディレクターからすれば、現代の写真表現は価値のあるものと価値のないものとを区別する術をもっているといくら自負したところで、そんな術にさえ確固たる裏打ちなどはありません。こと写真について言えば、価値は新しい表現にもっとも高く、強く反映されているように見えます。しかし、新しい表現も瞬く間に次の世代の表現者によって希釈され後ろに追いやられているようです。文化の顔をした商業の枠組みがいわゆる権威と結託し恣意的にヒーローとヒロインを生み出し、それを有力なギャラリーや出版社が大売り出しして利潤を上げ、賞を与えさらに値段を上げ、また次へ、また次へとベルトコンベア操業を繰り返し、結果的に文化が創造されている、そんな雰囲気がアートの世界には濃厚です。"チーム一流"とでも言うべき豪奢なエコシステムの雰囲気かもしれません。そして、この雰囲気が、僕は芸術文化と人々との間に大きな溝を作り出しているように思えるのです。権威と結びつくと、なぜか写真は高額になり、大きくなり、高嶺の花となり人々の暮らしからかけ離れていくのです。

こうなると、ハービー・山口さんの40年続けた写真表現の優しさとぶれない安定感、萩原義弘さんの地味だけれど物語性を含んだ正統な雪と廃墟のモノクローム、こういうものにこそ価値があるのだと、誰かが、何かが、叫び続ける必要もまたあるのです。写真の中心にはいつもこうした写真があり、それが多くの人を惹き付け、写真ファンの賞賛を得てきたはずなのですが、どういう訳か人々は権威に振り回されこういった写真を見過ごしがちです。こういう写真の価値を守る、新しい表現との対決という構図ではなく、オーソドックスな写真が新しい表現としのぎを削り合う上記の「何か」というのはこの国のどこにあるのでしょうか?

写真の様々な創造を体系的に読み取りながら批評を加え価値を評価する仕組みのない日本において、だからこそ写真の未来を語ることは重要です。国立写真映像大学や写真文化芸術研究所、写真文化芸術学会みたいなものがあって、写真の歴史的体系から高い教育を受けたもの、批評やコミュニケーションのスキルを持ったものが主体的に写真文化を形作ることに携わるようにできないものか。写真家が権威に媚びず、文化が権威を引きずりおろして発展したロック時代の欧州のようなムーブメントが起こらないか。キャリアの長さや表現の本質的な高さ、社会参加の傾向の強い作品にも新しい表現と同等の価値を認める未来であって欲しいと思うのです。写真の担い手それぞれがそれぞれの利益を勝手気ままに目指して活動する様子は、まさに漂流と呼ぶしかないし、写真の中心を失っているとも思えます。全体の利益を考えない考えを捨てて、売れないからという理由だけでアートを大安売りする姿勢が芸術の価値を根底から崩しかねない危機であることを認めて、いろいろな局面、断層、クラスをまとめあげる大きな枠組みを作った上で、それぞれが得意とする写真活動を展開するようにすれば、写真表現の拡散は誰もが理解できるコンテクストに変換される可能性があるのです。写真の中心はその価値を守り、さらに発展する可能性があります。その価値がわかりやすく翻訳された写真は、多くの一般の人の注目を集め、市場が生まれる可能性があるのです。

10月2日TANTOTEMPOにおいて「写真の未来」について話し合うSalonが開催されました。甲南女子大学の馬場先生の司会のもと、まず写真の未来についての馬場先生の基調講演を、続いてさまざまな写真・アートの担い手から現在の活動と未来の写真について意見を語っていただきました。

基調講演で馬場先生はアルル国際写真フェスティバルを取り上げ、特別枠で招待国家として取り上げられていたアルゼンチンの現代の写真表現から身体にまつわる派手な演出写真に写真表現の行き着くひとつの方向性、すなわちもはや写真の強みであったリアリズムは脇に追いやられ物語性を強く焼き付けられた絵画のような写真がこれからの写真の未来を暗示している、との説明がありました。また、パンクロックというムーブメントが従来の写真の価値を突き崩し、写真の文化的価値創造と拡散に一役買った1970年代80年代の欧州の状況が説明されました。

続いて、大阪で写真ギャラリーgallery maggotを経営されている大木一範さんが、自身の撮影した写真の中に、意図せず構図の中に映り込んだ驚くような真実があることを説明し、写真のもつ高いリアリティや予測できない驚きが本来の写真の価値であることを説明されました。しかし、現代の写真表現のなかにはそういったものが見えず、価値があるのかないのかわからないものが氾濫しているということも語っておられました。また、ギャラリーの運営基盤としてレンタルシステムをとっているものの、常に埋まっている訳ではなく、苦しい胸の内を明かされる一幕もありました。

次に、Web上の写真活動が認められ現在では大変な数のファンを有する写真家のヨシダユキヒロ(twitterアカウント@sirop)さんが登場。Webサービスであるflickrから写真をはじめ、コンパクトデジタルカメラで写真を撮影しWeb上で写真を供覧するところから写真にのめり込んだ自身の写真活動の歴史が紹介され、「お散歩カメラ」というキーワードに1万人を超えるアマチュア写真家を呼び込んで活動していること、Webから発信する情報が良くも悪くも人を集め写真の広大な裾野を形成する可能性があること、などを紹介されました。その上で、名古屋や東京でリアルな写真展を開催した際、Webでの活動がその反響を後押しした事実を話され、Webからリアルに展開する写真活動にも未来の可能性があるのではないか、とされました。

最後に、京都大学に在学中の長谷川新さんが登場され、現在大学の研究テーマのフィールドワークとして携わっている瀬戸内国際芸術祭の情報をお話しいただきました。瀬戸内国際芸術祭は7月のオープニングから現在まで50万人を超える膨大な集客を果たし、現在でも人気のある展示会場は入館7時間待ちとなる状況があるとのことです。ベネッセという企業と内外のアーティスト、ディレクターが直島を中心に瀬戸内海の島々を舞台に選んで展開したこのアートの枠組みに殺到する人々の様子を写真で紹介され、アートというキーワードに踊らされる地元の人々、訪れる人々の実態と悲哀を紹介されました。アートが好きで訪れているのか、お祭りが好きで訪れているのか、どうしてこれほどまでに集客ができるのか、しかし一日居ても入館できないなど問題のある運営、また町おこし的なアートの枠組みが各地で起こっている事実のなんとも切実だけれど安易な背景が紹介されていました。

その後、Salonは参加者の持ち寄った美味しい料理、ワインなどで盛り上がり、そこここで写真や文化、芸術に対する談義がわき起こっていました。

写真表現はどこに向かっているのか、誰にもわからないと思います。そのとき登場した才能を、そのとき居合わせた人が価値を認めて、そのとき居合わせた人々が鑑賞しお金を払う。本質的にはこれでいい訳です。アートは創造され消費され消え去るものであることを現代社会は示しています。歴史的に認められた写真家の普遍的な価値について、歴史に見合った価値を保有したまま、誰もがそのすばらしさに触れられるようにするには、写真の価値を常に支える何かが必要で、おそらくは新たな枠組みが必要だと思います。現在の構造をいったん解体し、文化のレベルで整理統合する必要がある、写真が絵筆のひとつのような手段になるとしても、それを使って描かれたものがアートであるためには、幼少時の美学教育や高等な写真教育を含んだ価値創造の普遍化、脱普遍化が必要だと思う、こう締めくくってSalonを閉じさせていただきました。

表題からすれば、写真の未来について僕が確たる信念で語っていると思うかもしれません。写真の未来というキーワードからすれば、僕はその未来を信じてやまないし、TANTOTEMPOの活動をより高い社会的、芸術文化的なコミットメントを通じて高めていきたいと願っています。

そのひとつとして、私自身が医師である立場から、「病院力プロジェクト」、"ART in HOSPITAL"という枠組みを構築中です。ここに多くの写真家やアーティストを導いて、社会にアートを反映させることが可能かどうか、より大きな枠組みとして問いかけていきたいと思っています。また、国家の文化レベルを上げたり、美学教育を行うには政治が必須です。文化予算が少ないことと人々のゆとりや生き甲斐が見えないこととが何か相関があるのではないか、とも思うので、先に書いた国立写真映像大学や学会、研究所のような機関設立に向けて活動できる人を集めていきたいと思っています。

TANTOTEMPO Salonにご参加くださいました方々、本当にありがとうございました。参加くださった皆さまが写真の未来だと確信しています。

なお、お願いですが、参加された方で会場の光景を撮影された方、写真データをお譲りください。話に夢中になってスタッフサイドで撮影をしておりませんでした。


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