2009年9月アーカイブ
文・馬場伸彦(メデイア文化論)
寺山修司/森山大道『あゝ、荒野』2005年12月 パルコ出版
『あゝ、荒野』(1966)は、寺山修司の書いた唯一の長編小説である。「あとがき」によれば、この小説は「モダン・ジャズの手法」によって即興描写で書き綴られたという。「書きながら登場人物がどう動いていくかを(登場人物と一緒に)アドリブで決めてゆくという操作は私にとって新鮮な体験であった」。寺山の言葉に従えば、登場人物の話も気分任せ、物語の結末も気分任せであって、あらかじめ想定されたプロットや構成はないことになる。したがって、結末は即興で書いた結果でしかない。
即興演奏のプレイヤー(まさしく役者)は、物語の冒頭に「あゝ、荒野のための広告」と題してあらかじめ紹介されている。まず、二木健二(愛称バリカンと呼ばれる床屋の無宿ちんぴら、二木建夫(バリカンの父親)、新宿新次(ユリシーズの肉体をもった二十歳のボクサー)、曽根芳子(性にしか関心をもたない女店員)、といった具合だ。
さながら劇画のキャラクターのようだが、寺山の特異な文章によって、彼らはあたかも実在の人物のように生き生きと動き出す。『あしたのジョー』のキャラクター、力石徹の葬儀を行ったのは寺山であった。虚構と現実の境界をいとも簡単に溶解させてしまうのは、寺山の得意技であろう。
すべてがアドリブだという主張をそのまま鵜呑みにするわけにはいかないが、実際、この小説には、物語の枠組みを越境し、さまざまなコンテクストが介在しやすい仕組みが随所に散見できる。たとえば、ブルースや歌謡曲の歌詞の引用、CMのコピー、売れている商品やベストセラーの本などなど。それらはすべて実在するものであり、60年代後半の新宿を表徴し、共鳴する記号であった。しかも、寺山は章のはじめに短歌を添えている。物語とは直接関係のない短歌であるが、この短歌の余韻が通底音となり、独特な雰囲気を醸し出していく。また、小説の本文にも特徴がある。明朝体を基本としながら、時折ゴシック体に変わり、変化させ、視覚的に差異化を図る。こうすることで、ゴシック体の部分は強調されるのであるが、それは、即興演奏におけるアクセントであったり、ドラムの印象的なフィルインであったり、情感を盛り上げるサキスフォンのソロパートのような役割を果たしている。「すべてのインテリは、東芝扇風機のプロペラのようだ。まわっているけど前進しない」、「老人に必要なのは、諦めではなくて、もっとひどい絶望か、あるいは偽りの希望かの、どっちかなのだ」といった、ゴシック体によるアイロニカルな表現に出会うとき読者は、不意にカンターパンチをくらったような気分にさせられることだろう。
本書は、1993年河出書房新社から文庫本として刊行された原本(66年に現代評論社より刊行)に森山大道の200枚を超える写真を加えて再編集したものだ。その意味で、これは森山大道の風変わりな写真集ということもできる。野良犬のような鋭い眼差しで彷徨い、60年代の新宿の表層を切り取っていく森山の写真。都市から剥がされ、印画紙に定着したその映像は、深層への道標となり、読者の目を直接、失われた過去へと結びつける。
無論、森山の写真はこの小説のために用意されたものではない。たまたま同じ時代、同じ場所が題材となった「偶然」の結果に過ぎない。しかし書物という場に交錯した「偶然」と「偶然」は、もはや単なる挿絵やイメージ写真といったレベルを超え、強い共犯関係を生み出している。短歌、物語、写真といった異なる表現形式が赤コーナーと青コーナーに分かれて戦うボクサーのように火花を散らし、不安を煽り立てる森山の写真が、劇場都市の欲望をありありと浮かび上がらせる。
森山が大阪から上京したのは1961年であった。最初に出会った街こそが「新宿」であった。「この街は、ぼくのあらゆる生における現場であり交叉点だ」と森山はいう。混沌としたカオスのごとき60年代の新宿。モノクロームの写真に象徴される光と闇。そして、隣り合わせの生と死。物語と交互にインサートされた森山の写真が、「憎まれることで愛される」と信じるバリカンと肉体を燃焼する行為にしか生きる意味を見出すことの出来ない新宿新次とのボクシング試合の隠喩となる。
「ふいに、〈バリカン〉は子供の頃のお祭りを思い出した。おみこしがだんだん遠ざかってゆく。おみこしと一緒に群衆も遠ざかってゆく。俺だけは取り残されているのに、誰もそのことに気がつかない......みんな後ろ向きだ......みんな去ってゆく。親父さん、俺はここにいますよ。親父さん、俺はいま、ここにちゃんといる......だから誰もどこへも行かないでくれ。誰もどこへも行かないで下さい。俺はとうとう「憎む」ということが出来なかった一人のボクサーです。俺は、まだ醒めている。俺はちゃんと数をかぞえることもできる。俺はみんなが好きだ。俺は「愛するために愛されたい」五十四発......五十五発......五十六発......五十七発......見ていてくれ......俺はまだ、ちゃんと立っている......五十八発......五十九発......六十発...六十一発...(中略)...七十五発......七十六発......七十七発......七十八発......遠い......目の前が一望の......荒野だ......七十九発......八十発......」。バリカンの死亡証明書で物語は閉じられる。
「もしかしたら見えるかもしれない、たった一枚の、来るべきイメージのために、ひたすら自身にのみ向けて、日頃、撮りつないでいるような気がします」という森山の写真に対する姿勢は、二人のボクサーの死闘と重なり合う。
文・馬場伸彦(メディア文化論)
思えば「家族」という関係は不思議なものである。それは何か目的や理由あって集う集団ではない。家族は宿命的に関係づけられ、ある一定の期間、住居を共にする共同体の基本単位といえよう。夫婦という単位には子供の存在は前提ではないが、家族という言葉には夫婦とその子供といった、少なくとも二世代にわたる血縁関係が不可欠のように思われる。
家族の歴史とは世代の継続の上に刻まれるもので、戸籍や家系図がそれを制度化し強制する。しかし関係性という観点から家族をあらためて見つめ直してみると、宿命的な繋がりを条件付けられているものの、決してそれは安定した関係ではないことが分かる。関係性を築く基点は個人であり、個人は家族という共同体に属さなくても存続可能だからだ。したがって家族という関係性を安定した状態に保つためには、宿命的な繋がりを確認する機会、いわば通過儀礼や儀式といったものが不可欠となる。七五三や節句、クリスマスやお誕生日会、家族旅行や冠婚葬祭などは、日常で意識されることのない家族の関係性を再確認する契機として機能する最たる例だ。そうした儀式は「記念日」と呼ばれ、鮮明な映像でその後いつでも取り出せるようにと、「記念写真」が撮られるのである。
浅田政志の写真集『浅田家』における「家族」とは何だろうか。私たちはその「記念写真」のような表象から何を発見するのだろうか。浅田の写真は、大別すれば「演出写真」に分類される。彼の写真は「決定的瞬間」ではなく、「逃げ去るイメージ」を捕らえたものでもない。それは撮影される以前に、家族会議によって既にイメージが想定されており、プランにしたがって衣装や場面が準備され、家族の「記念写真」となるのである。つまり、『浅田家』における写真は予めできあがりのイメージが程度の差こそあれ家族の中で共有されているのである。だが、『浅田家』が単純な「演出写真」なのかといえば、そうではない。シーンを演じているのが実際の浅田家の家族であるために、その演出意図はいわゆるコスプレ写真や擬似的ドキュメンタリー写真とは異なる様相を帯びている。
写真集のページをめくる私たちは、様々な職業、様々なシーンを演じている「浅田家」の人々に出会う。もちろん彼らが実際の家族であることは周知である。セルフタイマーで撮影されるから、撮る者自身も被写体となり構図の要素に回収される。写真集の最初の一枚は、共同体の象徴である表札からはじまる。唯一演出のないこの写真が私たちを、家の中へと導いていく。「浅田」という家名は、海水浴場の看板に、ラーメン屋の制服に、選挙立候補者の襷に、そしてヤクザの邸宅の玄関に反復される。こうした反復される記号作用によって、場面設定における意味を直截的に読み取ることが拒否される。私たちは、浅田家の「家族」という概念を経由せざるをえなくなり、共犯関係を結ぶのである。換言すれば、見ることを通じて演技者たちの関係性に否応なく巻き込まれてしまうのである。
浅田は「僕の写真は記念写真」だという。「けれど、いわゆる普通の記念写真とは少し違います。普通は、どこかに出かけたらメインの場所でパチリ。みんなでたまたま集まったら並んでパチリ。それはそれでもちろん良い。写真だなって思う。 でも浅田家の記念写真は、みんなで休みを合わせて、場所を借りたり、服を決めたり、シーンをみんなで考えたりして写真を撮ります。それは自ら記念をつくっていく記念写真です」。
たいていの場合、写真を撮るという行為は個人的な関心を出発点とする。作品は作者が表現したいイメージを具現化したものであり、それは自我の鏡となる。写真家は世界を「どのように見たのか」という帰結、「どのように見たかったのか」という欲望の表象として写真作品は生起するのだ。その意味で、作品は写真家の美意識や価値観の中に「閉じた」構造となる。しかし浅田の写真は社会に向けて開いていく。なぜなら、そこに写っているものは家族そのもの姿ではなく、家族が一緒に作品を創っていく「過程」が表象されているからだ。「本当は写真でなくてもいいのかもしれない。ただ、そこから動き出すものを信じています」と浅田が語るように、それは作品を媒介に、動きを生み出すことが意図されている。つまり「未完成」の状態のまま作品の評価を観る側に委ねていくのである。誰もが理解できるステレオタイプ化された場面、雰囲気を演出する小道具の手作り感に溢れた適当な造形は、写真を見る私たちに能動的な参与を要求する。この参与性の高さが浅田作品の面白さなのである。浅田の写真は、未完成さを演出することで、「開いた」構造の作品となる。
家族を被写体にした演出写真といえば、砂丘を背景にした植田正治の作品が思い浮かぶ。植田が絵画的な構図を得意としたのに対し、浅田の写真は演出を加えながらも、家族のリアルな関係性が図らずも描き出される。「芸術的」完成度を求めた上田作品の対極に浅田作品は位置づけられる。
幸運にも彼のコンタクトを見る機会があった。印が付けられ選択された写真は、通常の「記念写真」のような静的なものではなく、より自然な動作、より臨場感のあるものが選ばれていた。まさしく、それは動き出しそうな静止画像であった。浅田の写真は「コミカルな」という形容詞が附与されることが多い。「家族」総出で、大真面目に演技しているところに滑稽さと温かさが否応なく滲み出てしまう。私たちはそんな家族の姿に共感を得る。失われた家族の物語を私たちは発見し、自らの家族の記憶と接続させるのである。この接続作用こそが浅田的家族写真の真骨頂なのだ。(写真は浅田政志『浅田家』赤々舎より転載した)
