写真を解釈する(馬場伸彦ギャラリートーク)

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R0012382.jpg写真を眺めるということ。

一日の生活の中で、僕たちはいったいどれくらいの写真を眺めるのだろう。こう考えた僕は、5月のある日街中を歩きながら目に触れた写真の数を数えてみた。

新聞やウェブ、街を歩けば広告やチラシにそれはくっついていて、僕たちは氾濫するイメージにあまりにも無防備だ。その写真が何を伝えるものであれ、僕たちはその写真から「何か」を受け取ることになる。望む、望まないに関わらず、写真はその「何か」を視覚から意識の中に侵入させるのだが、恐ろしいことに僕たちはそれを止める手段を持たない。目をつぶればいい、とあなたは思うかもしれないが、目をつぶって生活はできない。一切のイメージを拒否して生きることなどできっこないのだ。それが僕を不安にさせる。

134枚、そこまで数えて僕は数えるのをやめてしまった。たった15分そこそこ歩いただけなのに、134枚の写真を見つけてしまったのだ。そしてその大半は、恐ろしく無愛想な広告写真か極めて誇張された感の強い店先のメニューの写真だ。

写真は何を伝えるのか。少なくとも、写真には意味のないもの、意味のあるもの、偽物も本物もある。人びとを動かす、たった一枚で世界を変える写真もあるし、ただそこにあって意味もなくイメージを垂れ流しているものもある。しかし、総じて、多くの写真から僕たちは何かを受け取っている。

写真を解釈するのは簡単ではない。作家性、世界観、テーマ、モチーフ、コンセプト、技術などさまざまなことを読み解いて写真を分解する作業は、主に学者や一部の愛好家、美術キュレータやアートディレクターが関わる作業ではある。しかし、写真を眺め感動を覚えたり嫌悪を抱いたり、少なくともそのイメージが好きなのか嫌いなのかを解釈することは誰もが普通に行っていることだ。写真が何かを僕たちに伝えようとするとき、僕たちは受け取った何かを間違いなく解釈している。

素朴な問いがある。

偉大な写真(写真家)は、どうして「偉大な写真(写真家)だ」と言われるようになったのか。誰がいつ決めたのか。

写真はいつメディアの主役となり、現在の位置にたどり着くことになったのか。写真が取って代わられるメディアとは何か。映像なのか、それともまだ誰も知らないメディアが登場するのか。

無数の氾濫するイメージの中から、どうして特別な一枚を選ぶことができるのか。何がそうさせるのか。意識のどの部分に写真は作用するのか。

これらのことに回答があるのかないのか、僕にはまだ答えが浮かばない。これらの問いに答えてくれるかどうかはわからないが、僕は今週末に行われる馬場伸彦先生のギャラリートークを大変楽しみにしている。普段から僕は膨大な数の写真を眺めて生活しているが、それを眺めるときにより豊かな感受性をもって眺められるようになりたいと思っている。また、眺めて感じたことをより豊かな表現で誰かに伝えられるようになりたい。そのためには写真をひもとく今週末のギャラリートークは極めて有意義だと思う。僕も少しでも多くのことを馬場先生から教わりたいと思っている。

写真を解釈できるようになるってことは、きっとすばらしいことだと僕は信じている。

皆さんも5月16日午後5時からTANTOTEMPOで開催される馬場伸彦ギャラリートークにぜひお越しください。参加無料です。

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