Farewell you.
凛と澄み渡った空気感と静寂、情景に緊張をもたらす光と陰。
廃墟のそもそもの始まりは、この国を立ち上がらせた産業の興隆にある。人びとがまだ小さな藁葺きの木造の家に住み、畑を耕し、糸を紡ぎ、蠟燭の灯りで暮らしていた頃、西洋から始まった産業革命が遠くこの国にも飛び火し、国力高揚を掲げた政治と資本があらゆる資源に手をつけ始めていた。資源の眠っていた小さな村は、瞬く間に人を集め町となり、多くの労働者でにぎわったという。幾度もの戦争がこれらの町をさらに大きくした。
萩原義弘の"SNOWY"を見ていると、僕には音が聞こえる。これらの町の生活や産業の賑やかしい音が聞こえてくる。
石炭に代わり石油の時代がやってきた。諸外国から安価な資源が流れ込み、国内の資源開発の意味合いも薄れてくる。人びとは都市開発に駆り立てられ、山奥深い町よりはまた異なった夢を求めて都市に移り住んだ。石油製品があふれ、土の道路がアスファルトに置き換わり、冷蔵庫やテレビといった文明のにおいのする道具が日本中を埋め尽くすことになる。巨大資本は、もはや町には用はなかった。町は打ち捨てられ、寂れ、人が流れ出るのを留めるすべを失った。
崩壊の音もまた、"SNOWY"を見ていると感じられるのだ。
僕たちは今、確かに豊かな世界に生きている。経済に翻弄される構造は、遠く資本主義がうぶ声を上げた18~19世紀の西洋にさかのぼるが、この構造は間違いなく多くの遺産をも世に産み出している。打ち捨てられていくもの。見放された町。世界を支えていたものが、明日には消えていくという現実も、何も炭鉱や鉱山に限らない。僕たちは、でも、こういう世界に生きているのなら、僕たちのくらしを支えてくれていたはずの失われたものたちに、少しだけこころを向けていてもいいと思う。世界がめまぐるしく移り変わり、政治や経済や社会や人の関わりのすべてが薄く劇場化してリアリティを失ったかのように見えるのは、資本主義の結末なのか。それとも新たな構造の始まりなのか。人のこころにも、豊かさを求めるあまり置き去りにしたものがなかったか。僕たちは次の世界に責任を果たすことができるのだろうか。
萩原義弘の"SNOWY"から聞き取れる音は、静かに僕のこころに降り積もっている。しんしんと降り続く雪のように、積み重なり、解け、また降り積もって、音もなくこころを締め付ける。いつか廃墟が完全に分解されるとき、世界はどうなっているのだろうか?
僕には決してわからない、雪のみぞ知る、だ。
雪はどこまでも純白だ。
萩原義弘さんの"SNOWY"は3月1日(日)まで。
